《こどものおもちゃ》简评:
原題:『こどものおもちゃ』アニメ感想ーー異化効果、そしてリアリティとの張力
3ヶ月くらいかけて、先週『こどものおもちゃ』(こどちゃ)を完走した。タイトル自体は小さい頃から知っていたけど、どうやら『こどちゃ』のアニメは、台湾では僕より少し上の世代がみんなテレビで観ていた超有名作らしい。
最終話を見終わったあと、まず思い浮かんだのは、作品が示す「ドラマ」もしくは「演劇」という意味への解釈かな。舞台やドラマに対する視点で脚色しつつ、「演劇とは何か」という問いを作品そのものの中に組み込んでいるように感じた。なんだか、こうして演劇性(?)について何かを考えさせられる作品に出会ったのは、久しぶりかもしれないと思い、ここで感想を記録しておきたいと感じた。
この作品全体にわたり高度に誇張された形式的演出が貫かれていて、随所に挿入される漫符的な表現、SD化した登場人物、第四の壁の突破、ところどころばびっとのツッコミ(たまに登場人物との会話まで)などがみられる。誇張は視覚的演出に留まらず、登場人物自身もそれを認識してることもある。たとえば、実紗子の頭の上に棲むリスや、紗南の玩具ハンマーなど。
その一方で、物語のストーリー性はまたすごく豊かであり、平成初期のトレンディドラマのような抑揚ある展開が構築されてる。物語は、精神的トラウマ、家庭問題、学校内の人間関係、社会的孤立、テレビなどメディアの影響力、倫理的葛藤といった重い主題を軸としてる。正直、こられの議題をストーリーにする際、少しのミスが出てれば陳腐になりかねない。
だから、このような演出戦略と物語の組み合わせは、僕が初見する時も誤解が生じていた。僕は当初、こうした笑いや誇張は、単に、アニメを見る時の負担の軽減や重さの緩和を目的とした感情的バランスと受け取っていた。また、平成トレンディドラマにおける過剰なドラマ性を逆説的に照射するための策ではないかとも読めてた。
こうした叙述の断続性、あるいは没入感をあえて切断するような手法は、意識的な異化効果として機能している。すなわち、ブレヒト演劇論において典型的な戦略――観客に対し「これは現実ではなく、作られた演劇だ」と気づかせる仕組み。
つまり、演劇的表現は観客に「これが現実だ」と信じ込ませることを目指すのではなく、「物語を見る自分」を常に意識させる距離の作成を目論むのである。誇張された形式と重すぎた物語との齟齬そのものが、この目的のために配置されていると思った。
ブレヒトは、俳優が演技において感情移入を作り出すことを拒絶し、俳優自身が役そのものになるのではなく、「自分は今この時に演技をしている」という自覚を持つことを重視した。
(アニメにおける異化効果というと、真っ先に思い浮かんだのは、普通は高畑勲監督の作品なんだろう。登場人物に感情移入させるとか、感動を誘致することを避けているという作風。)
だが、物語が進行するにつれ明らかになるのは、『こどちゃ』では、異化効果のある演出が必ずしも登場人物と視聴者の感情の繋がりを切断するものではないということ。むしろ逆だったかもしれない。演出上は情緒の連続性を断ち切っているかのようであっても、ストーリーの構成自体は緻密であって、登場人物にも明確な心理的動機と行動論理に裏付けがあって、セリフも生活に基づいたもの。
各プロットには合理的な筋で支えられ、取り上げるテーマと現実社会とも連動している。すなわち、演出上はコメディ調の演劇性を保持しながらも、内容においては倫理と感情の連続性を高度に確保している。
こういう作品の構成について、僕にプドフキンの説を想起させる。僕自身の理解にすぎないかもしれないが、こうした映画観によれば、映画は「俳優が真に演じること」ではなく、「観客に真に感受させること」を本質とする。
映画の感情的力動は、俳優の演技の写実性から生まれるのではなく、むしろ編集、カメラ、演出の構築など映像言語の全体性によって、視聴者の胸の内に人物の心理過程と生命感を構築しうるか否かにかかっている。簡単に言うと「構築されたリアリティ」。
監督は視聴者に対し、虚構した作品に没入することを求めてはいないが。むしろ、形式的断絶の反復のなかに、感情の再構築の契機を仕掛けている。視聴者は、戯画的なシーンの後にこそ、より強烈に登場人物の脆さと痛みを感じられる。不協和に見える演出ほど、主題の重さを浮き彫りにし、視聴者に複合的な感受をもたらす。その演劇と視聴者の距離と共鳴、自覚と感情移入の併存。
こうした演出戦略は、決して現実からの逃避ではない。むしろ演劇的形式の解釈と再構築によって、リアリティとは何かを問い直すことを提示している。
これによって、虚構作品の中のリアリティは、幻ではなく、視聴者が視聴する過程にかけて運動的に生成しうる感覚と認識であるということを示した。
映像の叙述の方向性について、面白い可能性を示した。「物語を現実と信じさせる」のではなく、「虚構と知りつつも、そこに現実を感受させる」というもの。
セリフなど、取り上げたいところ
さらに、本作のセリフも重要な働きをしていた。
(恐縮ですが僕は原作まだ未見なので、アニメの内容のみ論じます)
本作におけるセリフの設計こそが、演劇性における真実の感情効果を生み出す主要な要因となっていると思う。代表的なものとしては、初期の羽山家編、小学生編締めにあたる武ちゃん編、ニューヨークから帰国後のドラマ撮影時の「悪魔」セリフなどが挙げられるが、それ以外にも枚挙にいとまがない。
思えば、本作における算数教室撮影編は、まさにブレヒトの演技論と同型の場面を提示し、考えさせられた。そこでは、算数教室ビデオの監督が紗南に対し、台本通りにセリフを読むだけでよい。台詞(すなわち数式)の意味を理解する必要はないと指示した。しかし紗南はその姿勢に疑念を示した。
「紗南ちゃんが分かる分からないは別として、これはお芝居なんだから、台本通り分かったふりしてよ」
「でもこのビデオ、算数苦手な子たちが見るんでしょう
私もそうだから、私が分かんなきゃ、その子たちも……」『こどものおもちゃ』アニメ第92話「ちっともカンタン算数ビデオ」
このやり取りそのものが、作品全体の演劇論を凝縮した縮図のように映るのである。
それと、前に言及した高畑勲監督。高畑監督が手をかけた『母をたずねて三千里』第28話の人形劇プロットを想起させるような台詞もあった。
このドラマはね、溝口先生が精魂込めて練りたドラマなんだよ。ただの学園ドラマとは違う。社会性も含むんでいる。セリフひとつにも先生の思いが込められているんだ。あのシーンのあのセリフは悪魔でなきゃインパクトがない。強烈なセリフでないとドラマが始まらんのですよ。『こどものおもちゃ』アニメ第87話「たたカレおわカレどこへ行く?」
セリフのほか作画タッチも作品の完成度に重要な鍵を担っていた。セリフ詳細や作画など、個人の文章力の限界もあるのでここで割愛する。ただ、最後に自分が特に気に入っている一つのセリフを引用したい。
「ちゃんと自分で戻れるんだよね。ちゃんと自分の力で戻れるんだよね。
この前僕が逃げちゃった時さぁ……僕は自分じゃ戻れなかった。あの時も君の力だった」「私もはじめは逃げちゃったよ」
「いいんだよ逃げたってさ。逃げちゃった時だってあるよ。
大事なのはさぁ…もう一度スタートにつけるかどうかじゃない?
僕みたいな大人はなかなかできないだよねそれは。
もしかしてそれってこどもだからできる特権なのかもね」『こどものおもちゃ』アニメ第46話「逃げた私が悪いのか」
余談ー他作品への連想
余談ですが、高橋良輔さんも、本作ではシリーズ構成の大半&全編の演出協力としてクレジットされてたが、演出協力というのは実際どこまで演出に関わってたのか、実に気になる。
なにせ、こういった虚構作品における演劇性は、高橋良輔さんの監督作品にもところどころで感じられる。すべての監督作を観たわけではないが、『ダグラム』『ボトムズ』『レイズナー』『ガサラキ』『Flag』などは履修済み。これらの作品は、本作のようなギャグ要素これっぽっちもないが、演劇と視聴者との距離や、そのリアリティの捉え方については、考え方が共通している部分もあると感じた。
そして、もう一つ本作を観て連想した作品がある。それは『アイカツ』(無印)です。同じく、その演劇性とリアリティで構築した人間ドラマという点。『アイカツ』の木村監督は本作では各話演出・絵コンテを担当したこともあって、もしかしたら本作から何らかの影響を受けているのかもしれない。
来自:Bangumi