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 前回に続いて、
 とりあえず、日本語でいう「人間ドラマ」(便宜上「ヒューマンドラマ」も内包させるとする)と、洋画でいう “Drama film” を同じ概念としておこう。そして本題に入る:アニメにおける人間ドラマは、映画や TV ドラマと比べて、それを成立させるには何か違いがあるか?

 人間ドラマの要は、舞台の実在性と登場人物への感情移入・共感である。より感覚的に言えば――この人たちに起こった出来事、彼らに生じた感情、痛みや苦しみ・葛藤、涙や喜びなど……それらが私たち視聴者自身、あるいは私たちの身近な人々にも起こり得そうだと感じられることにある。

 舞台の実在性、つまり物語世界の信憑性。それは物語が実在の出来事に基づいていなければならないというわけではなく、その世界で起こる出来事が「本当にありそうだ」と信じられること。その人物はその状況でそう行動する。その人物は世界のロジックに沿って動く。その動機や出来事への反応や生じた感情、そして人間関係の成り立ちは、私たちの経験と感覚と通じている。人間ドラマでは感情表現の誇張は許されるが、それはプロットやロジックを逸脱したものではなく、一種の生活経験を抽出・精錬したものとして受け取られるべきである。感情の焦点にズームインしつつ、流れの滑らかさも保たれる。そうして自然に作品は実を結ぶ。水到渠成ということ。

 そういう舞台を築き上げたうえ、はじめて作中の人物に共感できる。そういう共感の源は、視聴者が作劇の世界の人々への理解・感情移入ないし自己投影。まずはっきりしたいのは、ここはラカンの鏡像理論を引用するものではない、もっと単純なのもの。これは一種気持ちの、感情の共振であり、すなわち作中の人物がやっていること、直面している状況、抱えている困難など、視聴者にこのシチュエーションは自分にも過去に会っていた、もしくは将来に会うかもしれない、または自分がその場いる人物のように感じれるということ。ストーリー作りや物語性は、緻密で論理的なドラマチックや巧みに仕組まれたウェイルメイドプレイ構成を求めるという「物語はどう語られたか」に留まらない。というよりは、親近感のあるリアリティを感じられる人物の心境変化・起伏や重みのある選択の辛さで「人は何を経歴したか」を表す。一般に映画評論家でいうエモーショナルレゾナンスというものでもあり、また時には、写真家ではお馴染みのプンクトゥムという突き刺しとも近いであろう。私見ではあるがそれは人間ドラマが心を撃ち抜く力の源ではないかと思う。

そうすると、その土台はどう築くのか?

 実写ものでは、生活の空間や小物の設置など日常的な細部でそういう実在感を構築することはできる。というか実写ものだからこそ、舞台の風景がもし人々の生活の経験と反するなら感覚の不協和が生じる。ただアニメは違う。アニメの全てがゼロから作り上げたものであって、作画はどんなにリアリティを求め、実写の参照物をトレースをしても、視聴者の直感としてその成果がリアル・真実であることを否定する。でもそれはリミテーションだけではないし、逆にいうとアニメはある程度の自由のもとに想像力を用いて世界を創造することができる。
 アニメにはその先天的な非現実の本質が存在するため、生身の人が実在する実写ものの撮影現場の間では越えられない隔たりがある。役者が無意識に自身の成長実体験に基づいて芝居をして、その一つひとつの動きとその纏われてる気質で構築した偶然性のある痕跡は、アニメには存在しない。その故、アニメではそういう人間ドラマの気質を再現するーーすなわちアニメに感情の現実味および物語における世界の奥深さを持たせるには、変換のメカニズムによる表現の読み替えでその溝を埋める必要がある。

●実写の映像では、芝居表現は生身の役者であってこそ成立する。身体の動きや視線の揺れなどの表現は、役者自身の経験により感性の積み重なりから生成したものとなり、その場における芝居表現のリアリティは役者過去のある経験、もしくは幾つかの経験を内在化し、それらのものを表現の瞬間に再現することによって立ち現れた。これにより、視聴者はそこに「共鳴可能な存在」を感じ取ることができるのである。

●アニメ映像の表現は、声優の演出のほか、主にアニメ—ターによる絵で表現されたビジュアル的な動きによって成り立つ。それは間接的な仕組みであり、前述でいう役者の潜在意識の動きが発揮されることができないし、またその偶然性が帯びる動きと気質で心が撃ち抜かれる一瞬が起こる余地もない。したがって、アニメは現実世界の観察、抽出、そして記号・イメージの再構築により、身体性・生活感のある感情痕跡に迫っていて視聴者ははじめてその跡を作中の人物から読み取れる。仮にクリエイターにはそういう現実世界に基づいた経験への感覚・探知する意識がなければ、その手がかかった作品は感情が乏しい事件の寄せ集めのテンプレートでしかない。

 ゆえに、端的に言えば、アニメにおける人間ドラマの成立は困難ではあるが、達成できないものでもない。しかしそれは自ずと生成するものでなく、クリエイターによる能動的なアプローチが必要とされる。クリエイターがこういう人間ドラマ性を意識的に再現しているとは限らないが、少なくとも物語の世界の信憑性を重要視しようとする姿勢を持っているはず。そこには観察力、生活経験、そしてメディアへの理解などの統合した総合力が求められている。
 なので、実写もののドラマ性は視聴者に「この話は本当にあったような」と信じさせることとすれば、アニメは視聴者に「この話は本当だと感じるに値する」と思わせることであろう。なにせ、悲劇は私たちの心の奥底にある何かを解き放つものでなければ、私たちはそれに心を揺さぶられることはないんだからさ。

手法における実践の特徴

 日本のテレビアニメは黎明期以来、常に貧しい制作条件、例えば低予算、過酷なスケジュール管理、数少ない人員の体制などの客観的制限にいて、その環境に対応するため、高度な特徴を持つ演出手法が生まれ、発展してきた。この手法は単なる便宜上の対応ではなく、むしろ限られた世界から誕生した美学というべきであろう。静止画を動的に見せるカメラワーク――ズームイン・ズームアウト、カメラ揺れ、光と影の撮影表現、合成エフェクト、異化色などによって、一枚の絵、一つの画面にビジュアル的なリズムと情緒的な張り詰めたテンションを与える手法である。その代表的な例が出﨑統の止め絵演出に見られるが、出﨑演出は止め絵演出にとどまらず、アニメの演出手法もさらに多様である。
 次に、アニメの絵コンテは実写のような物理的カメラが存在しない(ここはアニメの撮影とは違うものを指してるので、混淆しないように)が、演出家はレイアウトやアングルの切り替えを通じて画面内に仮想的なカメラを創造できる。さらに、動画の編集でリズム感の創出も重要であり、間や間合いといった時間的距離感、静止画と動的なシーンの交錯によって、強い感性を持つリズム感が生み出される。
このようなメカニズムにおいて、リアリティとは単に物理的運動の精密さを求めるというよりは、映像の編成・時間の流れ方や視覚空間の構築などが作品ごとの軸となることも多い。特に後者を通じた物語の世界を構築することに重心が置かれる。それは、限られた材料を用いて最大限の感覚的・情緒的効果を引き出す魅力的な特徴だと思う。
 また、場面設定も重要な役割を果たしている。場面の磨きは時間の密度が合理的に付けられ、空間・環境の細部で生活感が活かされて醸し出される。それは登場人物の感情の行方や居場所のために不可欠な要素であり、こういう非言語的な日常リズムは役者の身体的な演技の不在を補足できる。
 こうした手法のメカニズムを中心として改めて人間ドラマの可能性を見てみると、実写ものとアニメの間にある先天的な感情リズムの溝を越えるため、観察に基づいた現実味をベースにした創造力が生じてきた。それと前述の感情を捉える演出の考え方で理解すると、その実在性は単純に画面のリアリティを求めることは遥かに収めきれない。生活のテンション、間、ためらいといった些細な瞬間を捉えるセンスが求められ、そういう人間味がある生活のスライスは視聴者に日常のエコーを感じさせ、物語の世界は実在であるとふと思わせる。
 反対に言うと、もしクリエイターがこのような変換のメカニズムを意識していない場合、アニメにおける感情描写は単なる記号の組み合わせに陥ってしまう。そのような作品は、感動だと思われるテンプレート、定番の泣き要素といったものに依存しがちである。それはテンプレートの形の当てはめに過ぎず、言い換えれば、それはエモーショナルレゾナンスではなく、視聴者の文化的記憶を刺激するための操作ともいえよう。

メディア形式制限の裏側

 前述のとおり、アニメはゼロから作り上げたものであり、ゆえに実写ものとは違い、生まれつきで実在性が持たない点を抱えている。その反面、アニメはある程度の自由のもとに想像力を用いて世界を創造する可能性が持てる。
まずはっきりしておきたいのは、ここでいう世界とは設定上は真実は否か(例えば、SF的な設定やアイドル文化がはやってる世界など)を指すのではなく、作画など画面上の演出としての外観である。
 アニメは特徴的な表現のメディアという本質がある。そこでは、非現実的な変化、速度、表情、色彩処理といった要素が多用されるが、それは実写とは異なった視覚の世界とその表現力を構築するための方法である。例えば、背景の抽象化、誇張された泣きの表現、表情のアップなどは、現実世界の物理法則を真似するものではなく、感情の強度や心理状態を伝えるためのものである。このような考え方において、アニメにおける自由性の構築は、物理的な模倣に頼らないかわりに、視聴者を人物の内面へと導いて、その心境や感受をリアルに体験させる実在性の源の推進力となる。こうした表現が人物の心理や状況描写に確実に用いられると、それは強い説得力を持った人間味が存在する。
 結局のところ、アニメにおける人間ドラマは、物語と感情の流れにおいて信じられる思いが要である。そこが求められる要素というと、作中の世界観とビジュアル的な演出が整合的であり、任意に逸脱してはならないこと。登場人物の行動が、それまでに構築された状況と動機に裏付けがあり、そのうえで感情の変化を駆動すること。ドラマ性がプロット装置ではなく、共感可能な倫理的張力を担っていること。画面が非現実的に誇張されていたとしても、感情の積み重ねには内面的な整合性があれば、観客はその生命力を感じ取れること。
 これが示したのは、誇張=偽物ではないということである。むしろ、誇張された表現が人物の感情や所在の状況に一致するとき、視聴者は実写ものの再現という天然な障壁を越えて、物語の出来事に存在している感情そのものの震動に直接に触れることができる。これこそが、アニメというメディアを通じた人間ドラマの強みである。アニメは、その主観的かつ詩的な表現方法によって、通常では描かれない感情の葛藤や内面的な情緒が、ゼロから一へと可視化された。それはアニメならではの言語である。私たちはその世界をどう感受し、どう人間と感情の関係づけにどう認知するかである。だから誇張、変形、視覚的リズムの強化といった手法は、経験から物語世界へのブリッジであり、それと対立するものではない。

台詞の力
(この部分では脚本家が作品成立における役割に関連するものではなく、最終的に表現されるテクストそのものを指してる)

 アニメ作品のテクストを論じる際、物語構造の整合性、伏線の張り方とその回収の仕方、そして最終的なテーマ性といった点に焦点が当てられるのがほとんどである。こうした分析は、作品に対する書き方の解釈論が成立できるが、最も直接的で切実なもの、即ち言葉そのもの自体がもつ感性的な空間を見落としてしまう。
つまり、セリフを情報伝達の手段のみとして解釈され、「何を言ったか」だけを論じるとき、大事なことを見失ってしまう。「テクストからセリフ、どう言語化されたのか?」「なぜ、そのタイミングで言われたのか?」「どのような文脈において発せられたのか?」セリフとは物語のパーツではなく、テクストの構造そのものである。物語は言葉のリズムとスタイルの実現によって立ち上がる。一つひとつの文の順番、テンポ、語調の選択、そして沈黙の長さや間合いまで、観客に「これは実在している」と「どこかヤラセっぽい」のとちらかを感じさせるかの決定的な分岐点となる。
 人間ドラマに戻ると、人間ドラマ系アニメの要、すなわち前述したエモーショナルレゾナンスに到達したいのであれば、クリエイターは生活経験を変換し再現する責任を負うことになる。役者の生身の芝居の代わりに、クリエイター自身あるいは観察した生き方、傷つき方、愛し方など世界への感受、それらを画面と音響の演出を通じてセリフに表現しなければならない。その表現の結果、視聴者は人物の痛みや葛藤、涙や喜びを信じることができるようになる。一つのセリフが「自然に」聞こえるとき、視聴者が感じ取るのは物語の展開や芝居ではなく、生活の言語感覚としての実在性である。逆に、セリフが「感動させるために書かれた」ように聞こえるならば、たとえどれほど演出が巧みに構築されていても、視聴者は無意識に違和感や拒絶感を覚える。これこそが、言語が持つ情緒の張力だと思う。
 テクストの力とは、「どう語られるか」「誰のために語られるか」「どこで語られるか」「なぜそのように語られるか」という複数の要素で作られる。言語のリズムやその奥深さを重視するとき、視聴者は作品のテーマ性や意図を超えて、このセリフが、その人物を生きている存在であると信じれるかという問いへの視点を導く。――「なぜこの人は、この瞬間に、このように言ったのか?」この意識が自然と生じたとき、それこそが、物語の中心部へ入れると思う。

結びはありません()
まだ続くを書く……たぶん{dmmz}ゼロからの工夫

来自:Bangumi

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